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「私の軽蔑心」。無頼な、あるいはパンクな生き方について。

 今回は、「私の軽蔑心」を追及し、「私が軽蔑心をなくすにはどうすればいいか」をかんがえてみたいとおもいます。私はとくべつエゴイストで、ただそれを直視し克服しようという意欲があるだけであり、以下はみずからの醜い心理を抉らんとする作業の明文化になるので、不快になりそうな方は気をつけてください。

 軽蔑心とは、醜いものであるという風潮があり、しかし「人間は軽蔑するものだ」というひともいますね。
 先にいうと、私じしんは「軽蔑心を克服しよう」とはおもっているのですが、「かならずしも軽蔑してはいけないとはおもわない」「私が軽蔑されてもかまわない」というタイプです。
 私なんかは、かなりひとを軽蔑してしまうほうで、それがすごく後ろめたく、軽蔑する自分の「悪」に傷ついてしまいます。いぜんは、きれいなこころが欲しいという反動的な欲望がつよかったんだとおもいますし、そしてひとを軽蔑する権利なんて、私にはないという罪悪感がありました(こういう優性思想的な比較意識があるから軽蔑するんでしょうね)。そして、単に「自分が軽蔑されたくない」という理由による、否定の感情も存在していました。

 さて、私のあらゆる思考、言動の選択には、「差別」という思考法がとり憑いていると自己分析しています。まだ「軽蔑」には至っていない、ただ区分し、差をかんがえ、分け隔てるという思考であり、それがつぎの思考・言動を吟味するうえでの参考となるのです。
 すなわち私はなにかをかんがえるとき、複数の人間、物質、思念等の差を吟味して思考し、次の思考や言動を、峻別し選びとっているとおもわれるのです。
 すなわち、私が複数の人間を題材にして考え事をしていると、この思考のプロセスによってかならず「人間同士でのなんらかの差」が意識のなかで産まれ(かれは脚が速い、かれよりかれは脚が速い等)、そこに「価値(有用な、優れた、というニュアンスが入ります)」の基準がその思考に介入していれば、たとえば「一定のレベル(主観による、この場合はこの程度であるべきだというそれ)より格下」、あるいは「自分より格下(かれは私よりも脚が遅い、つまり競技会というシチュエーションを想定すると私よりも価値が低い)」が見つかり、私はそれを「価値が低い、有用性が低い、格下だ」と認識してしているとおもうのです。
 私は、その「格下」だと意識したその瞬間の、「格下だ」という感情を、「軽蔑」だととらえています。
 「私よりもかれは脚が遅いから、私はリレーメンバーであり、かれはリレーメンバーではない」という意識は、「かれ」を「競技会という場面において、私よりも価値・有用性が低い」とみなした瞬間、「軽蔑」と私に名づけられるのです。なぜといい、その価値は絶対的なものではないのにもかかわらず、「かれはこの状況下では価値の意味で格下だ」だという意識が浮かんでいるからです。
 いちいち、「あいつは私より~だからくだらない人間でバカでどうこう~」とまでかんがえ、「攻撃性」や「優越感の快楽」が生まれなくても、私にとってそれは「軽蔑」です。この「軽蔑」を、「攻撃性」や「快楽」に発展させるかは、個人の趣味の領域だと、私にはおもわれます。たとえ快楽に育っていなくても、すでに「自己あるいは一定のレベルのほうが優越」の意識があり、この発展への意欲があるかないかに、それほどのちがいがあるとは私にはおもえません。なぜといい、たとい限定的な場面にせよ、人間同士に「格上」「格下」なんて意識が浮かび、絶対的であるわけがない価値を測る尺度をもちいることじたいに、私は自責に足る意識をみいだすからです。
 すなわち、私に「価値の尺度」がありつづける限りは、私は「軽蔑心」をもちつづけるのです。

 私のそれを「攻撃性」や「快楽」にまで育てない方法、私には「思考のシャットダウン」、「注意力によってそのひとへの尊敬心を生むこと」しか見つけられていません。
 それを育てないようにする意欲のゆえんは、むろん私のようなエゴイストの場合、「軽蔑する人間であることが露呈して、きらわれたくない」「私は軽蔑する人間だという意識に傷つけられたくない」というものになります。
 話にもどります。
 まず「思考のシャットダウン」は「軽蔑心」の克服ではないはずです。私は気力的な人間ではないので、よっぽど元気がないと、「格下への意識」を「攻撃性」や「快楽」に発展させません。ほとんど気力、あるいは前述したように趣味の問題(それを娯楽として得たいかどうか)、あるいは「自己が自己へ発展を許すかどうか」の問題となってきます。
 もうひとつ、私はひとを軽蔑してしまったとき、「このひとにはこんないいところがある」と注意力を働かせることによって、軽蔑や自尊心が膨れ上がらないように、気をつけていました。勿論、ゆきつくところは自分の為に、ですが。
 しかしそれは、一つの尺度で軽蔑を産んだあと、またべつの尺度でそのひとを尊敬しただけで、その尺度はかならずどこかで「格下」をつくっているのです。
 その連続の方法をとるのも、日常生活をおくるうえで「きらわれる人間にならないため」にはアリだとおもいますが、その為の考察ではないですし、私は「格下だという意識」じたいを軽蔑だととらえているので、もうすこし自己を掘り下げてみたいとおもいます。

 私は、すぐにひとを尊敬します。芸術家や思想家にたいするそれは、崇拝にまでそだってしまったことも多々ありました。
 私の軽蔑は、それとかなり関連があるとおもわれます。尊敬するから、軽蔑するのだと。
 尊敬には、尺度がいります。あるいは尊敬した瞬間に、尺度が構築されます。「価値」の意識が生まれるからです。「かれはこういう理由で価値がある」と思考するから、私は特定の人間を尊敬し得ます。
 その思考はひとつの「価値基準」をつくりだし、自己と尊敬の対象との距離を測る定規をつくります(私の場合)。
 「努力家だからイチローのことを尊敬する」という意識は、私の場合かならず「努力しているひとはかっこいい」という一つの定規をつくり、それは暗に「努力家がかっこいいという一つの価値観にかぎると、イチローほど努力していないひとはイチローほどかっこよくない」という意識をつくり(定規は無数にあり、私もたくさんの定規を有していますが、イチローの努力を尊敬することで一つの定規ができあがることは、私にかぎっては間違いありません)、その定規は、「自分より、一定のレベルより、努力していないと主観でみなした相手」を、「格下」だと私に意識させるのです。私は現在、「努力は実績がないと見えないから量や質を決めつけてはいけない」「実績・努力にも運が作用する」等を念頭に置きながら思考していますが、あくまで例の話であり、少年期は上記のようにかんがえていました。
 その私の定規こそ、「価値基準」そのものです。

 すなわち私は、尊敬する人間、一定のレベルの人間、そして自己との距離を、定規をもちいて測るような態度と、絶縁しなければならないのでしょうか。
 ひととひとを、点としてだけとらえる。
 いわゆる「ひとはひと、私は私」でしょうか。劣等感にさいなまれていた頃、よくいわれました。
 しかし、ほんとうに人間全体をこう捉えることによって、私のような人間が「ひとを軽蔑しない」ということを実現するには、かなり孤独で特殊な態度を必要とするのではないかとおもっています(その態度は後述します)。私のような人間だと、ただこうアドバイスされただけでは、軽蔑心は消えません。
 「ひとはひと、私は私」は曖昧なので、「私は他人にはなれない、私は私以外になれない」という、これもまたしばしば耳にすることばに変化させてみます。しかしその諦めを私が抱くという対応策では、軽蔑心は消えないとおもいます。劣等感はその諦めで、消えたかもしれません。しかし諦めただけでは、「あのひとは尊敬にあたいする優れた人間である」という意識はのこっているはずだからです。そこには、「あのひと」と「そうでないひと」とのあいだの距離があるのではないでしょうか。それを測ってしまうのではないでしょうか。その尺度で、私がだれをも軽蔑しないとは、言い切れません。

 前述した「差別」の思考プロセスで、「尊敬する人間」の価値を測った際の尺度、すなわち価値基準を人間一般につかうと、自己よりも「格下」があらわれ得るはずです。
 すなわち、私が「軽蔑したくない」とおもうのなら、特定の人間を尊敬する心理から絶縁し、人間を測るすべての定規を捨て、あらゆる価値基準の所有を拒絶せねばならないのではないでしょうか。
 しかしそうなると、私はなにをめざして、なにを基準に、生きれば好いのか。人間は花をいだかねば、私のように希死念慮のある人間はとくに、生きていけないとかんがえます。生きる意味、死なない意味、がんばる意味のことです。
 坂口安吾を想起します。

 さて、坂口安吾は、評論によって、文明や人間、国家を斬りました。すこぶる烈しく、そして明晰なことばによって。しかしかれは、『詐欺の性格』で大衆をぼろくそに批判した直後、「オレはエライ、大衆はバカだ、そんなことを言う奴は、私はキライだ」と書くのです。
 私ははじめ、「安吾は初めてキレイゴトを言ったんじゃないか」とおもいました。軽蔑するから、(そのとき)大衆を批判していたんじゃないかとかんがえていたのです。
 しかしかれは本心をいっていたのです。かれは人間を測る定規を持たなかった、いな持てなかった。なぜといい、「人間の性なんて万人がおなじものだ」とそのあとに書くのです。かれは罪人をいっさい軽蔑しません、「あらゆる人間というものが、あらゆる罪人を自分の心に持っているものだ」。
 なによりかれは小林秀雄からこう指摘されました、「君なんか、誰も尊敬してないだろう」。「誰も尊敬してない」、と安吾はこたえたように記憶しています。
 安吾は、人間というものに、差がうまれるわけがないという思想だったのではないでしょうか。それはすなわち、差が生まれ得る「人間の価値」への絶望です。

 安吾とならんで無頼派とよばれ、かれの友人であった太宰治は、名作『斜陽』で、自殺へむかってゆく直治に、遺書によって「人間は、みな、同じものだ」ということばを攻撃させます。
 かれいわくそれは卑屈で、奴隷根性の復讐で、「あらゆる思想は姦せられ、努力は嘲笑せられ、幸福は否定せられ、美貌はけがされ、光栄はひきずりおろされ…」、そう、「僕は、貴族です」と悲しくさけんだ直治が固執していた、「優越性」というもの、それに安吾は、ことごとく価値をみいだしていなかったのではないでしょうか。

 ここからは、考察は足りていないはずですが、坂口安吾を「大衆に対してのみならず、軽蔑心からのがれられた人間」だと決めつけて、かんがえます。

 つまり私のような人間は、人間を測るあらゆる尺度、そしてあらゆる優越性・劣等性を虚無へつきおとして、「人間はみなおなじものだ」と実感して、人間に差が生まれ得る「価値」など存在し得ぬと信じ、ひとにまったく尊敬心を抱けなくなって、はじめて「軽蔑心」からのがれられるんじゃないかとおもうのです。
 私は、どうしてもひとを尊敬してしまいます。エライ人間が、いるような気がするのです。ほかでもない坂口安吾じたいを尊敬し、「こうなりたい」とおもってしまいます。
 ジョン・ライドンは、自分のフォロワーに「俺らの真似をするな。自分自身であれ」といいました。安吾も、崇拝者にたいしおなじ感情をもったのでしょうか。
 無頼派とパンクロッカー、町田康を引き合いにしなくても、いっていることが似ている気がするのは、気のせいでしょうか。
 私が「こうなりたい」とおもって努力すると、かならずどこかで軽蔑心を生み、ともすれば排他的な思考も生みおとす可能性があります。「こうなりたい」ではなく、「こうしたい」とかんがえる必要があるのかもしれません。「こうしたい」のあとは、世界との折り合いと(したい放題な態度は勿論社会にいるかぎり肯定できません)、世界との格闘であるはずです。そういった人間には、基本的に「未来への不安」はないのかもしれません。「こうなりたい」には、かならず未来の予測がありますが、「こうしたい」には、現在しかないからです。。

 人間の本性へ、堕ちよ。
 堕落論。
 社会の価値基準から降りて、自我へ真に堕落した人間は、「格」の生まれ得るあらゆる価値を、人間のなかにみることができなくなるのでしょうか。
 素朴な欲望として本心からやりたいことをしか、そのために必要なことをしか、堕落した人間にはできない。あらゆる社会のしがらみから解放され、あとは自己と、不条理な現実との格闘のみ。ストイックな努力は、すべて自我の欲望をやり切ることに費やされる。あとは安吾そのものの生活のように、だらしなさの極みでしょう。そういえば、パンクロッカーもドラッグや性やなんかに色々だらしないですね。

 あらゆる価値基準、尺度がとりのぞかれてもなお発する、純粋な欲望。本心からやりたいこと。
 安吾は、きっとそれだけを求め、正直に従ったでしょう。
 かれは、たまたまやりたいことと才能、肉体の強さ(努力やデカダン生活に耐えられるタフさ)、時代が一致して、エライ文学者というあつかいになったとかんがえています。「文学上で優越性へ向かいたい」「さらに価値ある人間でありたい」「承認されたい」という欲求を感じないのです。
 本人は三文文士といっていましたが、原稿を書けば出版社が喜んで買っていたそうで、「堕落論」「白痴」はかれを有名にしましたし、けっこう、生前も評価されていました。
 しかし、かれには「ぼくはエライ文学者だ」という自尊心がないようにおもいます。おそらく、他者との比較による自尊心はなかったでしょう。そんなことできるくらい、ある種人間に夢をもっていなかったのかもしれません。
 ひとを軽蔑しないということは、「人間のなかに、格がうまれ得るあらゆる価値を期待しない」ということなんじゃないでしょうか。

 定規をもたず、人間を点でのみとらえ、人間同士を比較しない人間には、軽蔑は生まれようがない気がします。
 とすると、まったく軽蔑をしない人間は、「価値」なんて気にもかけず、ひたすらやりたいことをやるような、パンクな生き方、無頼な生き方、そんな良識からみれば、だらしなく、ろくでもない人間に、発見されやすいようにおもいます。
 そんな生き方のひとばかりになったら、現代社会はまわらないはずです。だから坂口安吾は、アナーキズムやコスモポリタニズムを理想にしていたのかもしれませんね。

 以上の文章の「正しさ」には自負がもてません、これからも「軽蔑」については、かんがえていきたいとおもいます。
 おススメの本があれば教えてほしいです…、けど、ここまで読んでくれたひといるのかな…。

 坂口安吾は、私とおなじ理想をもっていました。
 「無償の愛を人間の最高の姿とみる」。
 かれはそれを表出させた人間に、なにを見たのか。尊敬したのか。
 「人間性に差はない」のことばと矛盾させない為には、「坂口安吾は、人間はだれしも『無償の愛』を睡らせているとかんがえていた」とするしかありません。
 私はこの推測のなかにも、人間のなかにある夢(価値)をみてしまいます。


by akitsu-mio | 2020-01-15 06:37 | かんがえたこと | Comments(0)