人気ブログランキング |

悪について。

 いぜん、私は悪の内包する華に惹かれていた。悪の魅力に憑かれていた。
 愛読書は三島由紀夫やワイルド、ボオドレエルの文学だった。

 私の解釈では、ざっくり言って善とはなにかの役に立つこと、悪とはなにかを損なわせることで、たいていの善は悪をはらむ。どこかでなにかが損なってしまう。優しくする、もそうだとおもう。

 なぜ私は悪に惹かれていたか。
 悪とは、何かを成し遂げる為に、ひとを傷つけ損なわせるのも厭わず、ひたすら「理想」「欲望」のために、様々なものを破壊し尽くし、やり遂げるのが究極だと思っている。目的を達する、やり遂げるという、強さがあるのだ。ヒトラーなんかもそうだ、「優秀なアーリア人のみの強い国家を作る」という理想の為に、あんな残虐なことができた。実際に、強い国家はできた。これは前述した文学にかぶれていたときに得た考えだ。有名どころでいうと、「金閣寺」「悪の華」「サロメ」。
 例を挙げると、ボオドレエルはかなり巨大な悪を為せる人間だったとおもう。半分、褒めている。ボオドレエルは危険で背徳的でデカダンスな、悪に在る華を示した。それが蠱惑であると、恐ろしく魅力的に謳いあげた。これはある意味では傷つきにくい人間にしかできない仕事だとおもう。かれは娼婦を家に読んでぶん殴り蹴っ飛ばし、首を絞めるような男だった。私は女性から「首を絞めて」と頼まれてやってみたことがあるが、ほとんど力をいれられなかった。これは思い遣りとはちがう、「痛み」を想像して自分がくるしいのだ、「自分は暴力をふるっている」という意識に傷つくのが怖いのだ。
 ヒトラーへの憧れはなかった、しかし私は、余りにも弱いから、その反動で「悪の強さ」を欲しがったのだろうか。軽蔑されている弱い男が、そういう悪の強さに惹かれるのは、よくあることかもしれない。しかし犯罪をしたい、悪を為して社会で上に立ちたい、そういうことではなかった。
 私小説「睡る水晶」を読んでくださった方はご存じだろう。
 私は、殉教に憧れていたのだ。殉教する理由もないのにもかかわらず。
 悪の華でもっとも好きな詩は、禁断詩篇(裁判で削除するようにいわれた)「殉教した女」だった。三島の死は果して殉教なのか、ああいう風に死にたかったのではないか、そんなことばかりかんがえていた。

 当時書いた詩である。
 19世紀末の象徴派芸術に耽り、存分に憧れていた頃である為、鈴木信太郎や堀口大學の翻訳した象徴詩の表現のパクリしか見られない。要は殉教の美を謳ったものである。私はもう、こんなことは歌いたくない。美をみいだせなくなったので、歌えもしない。アガペーへの憧れのみ残る。ボオドレエルは「人間」を捉えるものとして読む。
 私のことをここで嫌いになった方もいるだろう、いや、読んでくれたひといるかな…。

 悪の行使は、確かに、なんらかの価値(私はこの言葉にいま虚しさを感じているけれども)へ向かえば、人間を強くさせる傾向があるように思う。そして悪役が古今東西人気であることからもわかるが、それは多くのひとに「カッコいい」とおもわせる現象である。

 成功者は、たいてい「悪の強さ」があるとおもう。これは通説でもある。だからダメだ、なんて全く思わない。私は悪を半分肯定する。すこしの悪は為さないとそもそも生きていけないと、私は思っている。それを嫌がってひきこもっても、今度は親に悪を与えるだけだろう。自殺しても迷惑をかけるだろう。価値の為に悪を為すことを怖がらず、悪を為してでものし上がったひとは確かにカッコいいし、すこぶる残虐なことをしているわけでも、法を破っているわけでもないから、責めるに足ることではないとおもう。
 やさしい善人は出世しない、男の場合モテない、そういう傾向はあるだろうとおもう。巨大なことはできないし、ひとを引っ張ることも難しい。強い権力はもてないだろうとおもう。でもそんなひともいて欲しいとおもう。私はそういうひとに癒されてきた。
 私はどちらもいるからいいんだと思っている。完全排他的な社会こそ私は恐れる。

 私たちは毎日のように悪を為す。犯罪者だけじゃない、かれらはある種自覚しているともいえる。かれらのそれよりは甚だしく小さいかもしれないが、気づかないような悪を、私たちは為す。どこかで、何かを、あるいは誰かを、損なわせている。私が今つかっているPCは、発展途上国のひとが劣悪な環境で働いた結果かもしれない。私の平和な毎日は、飢えたアフリカの子供たちの上にあぐらをかいている状態だろう。なにげなく発した言葉が友人を傷つけることなんて頻繁だろう。世界は私の表象だが、認識し得る世界以外にも世界はちゃんと在る。
 RADWIMPSの「狭心症」、すごく共感する。私の苦しみだ、とおもう。
 私はそれを見つける努力をして、ちゃんと見て、耐えなければならないと自己へ課している。すると罪悪感をもつ、自責する。

 「悪に耐える」、しかしそれは、「悪を為しても平気になること」という方向性へなりかねない。というのも最近、そういう方向で考えるようになっていたのだ。
 軌道修正のために、このブログを書いている。
 悪の感覚は、きっと麻痺する。毎日のようにひとを殴っていれば、感覚が麻痺するに決まっている。毎日ごみを道に捨てていれば、なんとも思わなくなる。大麻をやるのに罪悪感を感じなくなったら、もっと気持ちのいいものへ移行しがちだとおもう。
 しかし倫理的にそれではダメな筈である。もう一度自分へ繰り返す、世界は私の表象かもしれないが、それ以外の世界への忖度も私はもつべきだ。この辺はシモーヌ・ヴェイユや構造主義を勉強して、深めたいとおもっている。ああ、ヴェイユむずかしい…。
 私は悪を為して平然とする態度へ向かってはいけない。たとえ私の感情に「自分の為」というエゴしかなかろうと、結局は「自分の道徳を守ることによって充たされた自己愛の状態」を得る為であろうと、結果的に平然と「悪」を世界に発する人間になってはならないと思う。私の感情の善悪どうこうではない、悪を為すのは仕方がないけれど、反出生主義みたいなことを言うが、生まれてこないことが最善だとおもう、しかし現象として「悪」を発さないように、注意はしなければならない。
 アインシュタインは原子爆弾開発にはかかわっていないけれど、核兵器の基礎となる理論を築いた。それが核兵器開発へ利用された。かれは生涯それを悔いていて、苦しんでいたそうだ。WIKIでは、湯川秀樹に泣きながら何度も深くお辞儀をし、謝罪していたという記述がある。私はここに道徳をまもろうとする意思を見る。誠実を見る。だから赦される、という話はよく解っていないので書かない。赦されるのかな? 太宰はそう書いたとおもうけれど、ここもきちんと考えたい。しかし私はかれを責めない。
 「正しく自責する」という態度は、私のようなエゴイストが道徳的に生きたいのなら、必要だとおもわれるのだ。そういうブログにしていくつもりである。そういう意味のブログ名である。

 私は、悪を発さないように注意し、発した悪を自覚し耐えるのだ、悪に慣れてはいけない。

# by akitsu-mio | 2020-01-21 07:55 | かんがえたこと | Comments(0)

 私は子供のとき、大人たちの「こう生きろ」「こうであれ」に苦しめられてきました。ひっしでそうしようとしていましたが、なかなかできなかったからです。考え方、行動、人格を否定されつづけました。おのずと「私は劣っている」と思うようになりました。
 現在は、絶対的な生き方なんてないと虚しさを実感した為、そういった価値基準の強要には批判的な態度になりました。

 私は人格を憎んだり軽蔑することはできないと考えています。憎むのは「罪」に代表されるような、「現象」に対してするように心掛けています。犯罪者のことも、人格は憎んだり軽蔑はしません。むしろかれらに、「私」を見いだしますし。

 しかしこの場合、そんな大人が私に与えた「現象」じたいも、憎んだりできないとおもうようになりました。

 世の中の価値基準、「こう生きろ」「こうであれ」、それを、明らかに綺麗に生きられない子供に、苦しめてでも強く言って、その子を否定するということは、かれ等がその価値基準を信じているということで、それ以外の生き方や行動を我慢して、素朴な欲望をおしころし、「そうでない生き方なんてあり得ない」と突き放し、そう生きられない人間を「弱い」「劣っている」と否定し軽蔑してでも、その価値基準にひっしで自己を合わせてきたということです。
 そこには、それができずに苦しんだ私とは違う種類の、「苦労」という現象があります。それを続けてきたスタミナがあります。
 私はその「苦労という現象」を、きちんと見つめ、私にはできなかったことを数十年もやりつづけていたということに、尊敬でなく、尊重をもたなくてはいけないとおもわれます。現代の日本の社会は、そういうひとが大半だからこそまわっているのは、特にくわしく調べなくても、そうだろうなという気がします。無頼派やパンクロッカーが大半だと、ほんとうにアナーキーな世の中か、中世のようなそれしか成り立たないかもしれません。私はそれでも悪くはないとおもいますが。そうなってほしいとは思っていませんけれど。

# by akitsu-mio | 2020-01-21 05:33 | かんがえたこと | Comments(0)

 私には慢性的な希死念慮、ときおり襲う衝動的な自殺願望があります。

 初めて「自殺したい」とつよくおもったのは、小学校一年生のとき、図書館のなかでした。
 どうにも学校に馴染めず、あらゆる友達モドキは友達ともおもえず、家で本を読んだり絵を描いたり空想することだけが楽しかった、そんな社会不適合性を親から否定され(このままじゃ生きていけないという善意かな、確かに普通の社会人になることを「生きていく」というのならそれは正しいです)、「やることなすこと気持ち悪い」「オタク」「背が低い、顔がブサイク(両親が学生時代ファンクラブがあったくらい美男美女で、妹はモデルにスカウトされたくらい可愛いのです)」「犯罪者予備軍」「〇〇くん(いわゆるヤンチャな目立つタイプ)とお願いだから仲良くして」と怒鳴られ、暴力もふるわれました。いじめを受けたら、「お母さんに恥ずかしい思いをさせないで」と殴られました。
 あんなに絵を描くのが好きだったのに、描いた絵をビリビリに破かれ、「犯罪者にしかなれないよ」と殴られたことをつい想い出してしまう為、いまではなかなか絵は描けなくなりました。
 成績だけはよかったので、「九大医学部」と勝手に進路を決められ、授業が頭にはいらなくなり成績が落ちると「九大薬学部」に変更され、それを強要するような親でした。私は詩人になって、二十歳で死にたかったです笑
 そんな劣等性、否定されるべき要素が、「いま、独りで図書館にいる自分」に集約されているようにおもわれ、自己による否定の意識を一身に受け、強烈な孤独感、自己否定の感情、いまにも窓から飛び降りんとするようなはげしい衝動におおわれたのです。私はただそれが過ぎ往くまで、耐えていました。

 それいぜんにも「自殺願望」と名づけられていない、強烈な自己否定の感情はあったとおもわれ、壁に血が出るまで頭を打ちつけたり、鏡をみてあまりの醜さに頬に爪をたて血が噴き出るまで引き裂き絶叫したり、こういうのもなんですが、他者とくらべるわけではなく、私は子供のときから、くるしかったです。

 私はこういったことで自己憐憫を得たり、ましてや不幸だという意識で自己愛を充たす等の心の操作には、生涯反抗したいとおもっています。書いていて、すこし自己憐憫しちゃいましたが。
 ずっと「親のせいにしちゃダメだ、僕が劣っているのも精神病なのも、ぜんぶ自分の責任だと認識しなきゃ」とかんがえていましたが、こういう環境でそだったということから眼をそむけ、自分の弱さをつきはなすのも、理性で生きる人間として「違うな」とおもいはじめたため、それと向き合うことにし、幼少期のくるしさを要約しました。劣等性を軽蔑し、弱さを突き放すのは、それによって幸福になれる人間だけがすればいいとおもいます。このブログを読んでくれるような方は、する必要ないとかんがえます。
 両親は解りやすく不幸な家庭で育ちました。私は世間の感覚でいうととても虐待まではいきませんが、たいてい「親のせいにしちゃいけないレベル」といわれるとおもいます、私の両親は典型的な虐待を受けました。なので自分と比べているのか、私が精神病になって障害者雇用で働いていることに関し、母親は「しっかり育てた。私は悪くない。澪だけが悪い」父親は「澪に優しくし過ぎたから、困難を乗り越える強さが澪に育たなかった」という解釈をしています。わざわざ私にいわなくていいとおもうけれど、まあ育て方が不器用なのは仕方がないと思います。
 しかし私はかれらとちがい、正しく激しく自責しつづけ、弱さをつきはなすのではなく直視した上で「強さ」を構築し、自分の「悪」を自覚し明るめる人間でいたいです。そういう意味での、ブログタイトルです。

 そんな私をすこしだけ救った心の操作があります。通説どおりのそれです。それは、「いま与えられたものに感謝する」ということです。いいかえると、「これまで与えられた”現象”に感謝し、満足してしまう」ということです。
 私は愛情不足ではあったとおもいます。寂しさから自殺したい夜はほぼ毎日でした。よくネット友達と通話していました。もっと親に私のことを肯定してほしかった。愛してほしかった。しかし、人間には「愛」や「他者からの肯定」なんて、まああったら「幸福」につながるかもしれませんが、極論べつにいらないんです。私の少年期のくるしみを引きずらせ二十歳を超えても膨れがらせていた観念は、この一言に尽きるようにおもわれます、「もっと欲しかった、足りない私はおかしい」。ワガママですね、メンヘラさん(この言葉ほんときらい)は共感してくれるかもですね、私は男なので、需要はないそうです。
 親のおかげでごはんが食べられた、寝るところがあった、学校へ行けた(不登校になったけど)、友達もすこしだけいる(いないひとだってそれでいいとおもう)、恋人も何度かできた、働けている、その「現象」に感謝するんです。すると現状に「満足」して、「もっとくれ」とはおもわなくなります。欲しいものは自分でこれから手に入れられるものは手に入れようとおもえます。
 私は親を尊敬していません、一種の執着にも似た愛情はどうしようもなく持ちますが、まあ「不器用な育て方をしてくれたな」と正直おもっています、しかし親が与えてくれた、苦労してくれた「現象」に、感謝しています。そこに、果して「澪のため」という感情があったか。九大医学部に息子を入れて自己愛を充たしたかったんじゃないか、そんなことはどうでもいいです。どうせ、ひとの心は、見えません。
 たとえば、あるとき母は聖女のようにやさしい眼をして、「そんな風に産んでごめんね」という、とても私への善にはなり得ない言葉を私に伝えましたが、私は彼女の人格や心を憎むのではなく、その言葉として発せられた「現象」、その言葉に至る世の中の価値基準、思想のみを憎みます。父親からは「学校にいけず、精神病のお前は生物の出来損ないだ、いますぐちゃんと生きられないのなら死ね」と何度もなぐられました、これもどうようです。
 優性思想を否定はしません、ひとの勝手です、しかし私は、もう優性思想では生きません。劣った人間あつかいの読者さんがいれば(私は確信します、現代の社会体制や世間一般の価値観は、相対的な劣等者をつくります。文句はありませんが)、「優性思想は捨ててください、絶対的なものじゃない、あらゆる価値基準、優劣は虚しい」と伝えたいです。
 三島由紀夫が「他者の為に」なんてめったに生まれるもんじゃないと書いていましたが、親が子育てをするうえでの意識に「子供の為に」なんてなかったとしても、それはおかしいことではないはずです。
 「育ててやってるんだから目立つグループに入って理想の息子になれよ」、有償の愛ですね、しかしそんなことで、いちいち恨まなくていいとおもうんです、ただ自分の為に。憎むのはいいとおもいますが、人格にたいしてしなくていいとおもうけれど、「恨む」のは、自分がきついだけです。

 そして最後に。死にたいひとへ。とくに、死への恐怖も殆どなくなっているひとへ。
 私の純粋な欲望です、死なないでください。私はあなたに、死んでほしくありません。
 自殺したい人間に「死ぬな」というのを善だとしか思っていない人間は省察が足りません、相手にとっては巨大な「悪」です。やがて幸せになれば「善」かもしれませんが、死にたいとおもうくらい生きるのが下手なひとは、なかなか「幸福」にはなれないと本で読みました。生きることは無意味、「死んではいけない」という絶対的な戒律なんてあるわけがない、私はすでに自殺してしまったひとを責めたり軽蔑する気はない、そうであるのに「死なないで」と要求するのは、「苦しみに突き落とす」という巨大な「悪」を与えることであるとかんがえます。
 そうかんがえているのに、なぜ「死なないで」と冷酷なことを言うのか。なぜ「他者の為に」がもてないエゴイストが、顔もみえないひとにそんなことを伝えるのか。

 あなたが美しいからです。美しいものを、私はどうしようもなく愛するからです。

 自分で書いてても、すこぶるサイコパスですね。私はちょっとその気があるとおもいます。芥川の「地獄変」みたいですね、「美しいからくるしんでほしい」。
 生きていたいひとが生きている現象、「生きていたいならどうぞ、私は邪魔しません、自分のことしかかんがえていないから」としかおもえません。皆がんばっているとおもいますが、「生」じたいは自然な現象です。
 しかし「生きていたくないのに生きている」という現象にみいだされるのは、とくに死への恐怖が乏しくなっている場合(私はずっとそうでした)、「死ぬことは生きることよりも楽だ、幸福だ」という観念をいだきながらも、しかも生きることは無意味であるにもかかわらず、生きる価値なんてけっきょく絶対的なものは発見され得ないにもかかわらず、わざわざくるしいほうを選んで、無意味に戦っているという状態であるとおもいます。
 私は「美」というものには意味も価値も不在しているとかんがえています。あらゆる「価値」なんて虚空に突き落とし得るこの宇宙で、存在し得る価値とはただ「欲望を充たすこと」「幸せになること」であるとおもいます。しかしあなたは楽なほうをを、選んでいない。わざわざ、たとえヒキコモリであろうと、無意味な生と、格闘している。その姿は美しいとおもいます。なぜあなたは、格闘するか。
 死ぬことへの恐怖・生存本能だけじゃない、あなたに、「自殺してはいけない」という道徳があるからではないでしょうか。それは絶対的なものではないのに、それをひっしで守り、無意味な生を、せいいっぱい生き抜いてきている。
 美しい、あなたは美しいです。そして、おそらく、道徳的です。絶対的であるはずがない「自殺してはいけない」という道徳を守るのは、自分の為でしょう、それは「善への欲望」といえるかもしれません、けれども、道徳を気にもかけないよりも私は好きだ、そういうひとは、「自分にたいして誠実であろう」とおもえる人間なんだとおもいます。そんな意識がないひとより、私にはあなたのほうが、よっぽど魅力的です。
 あなたが美しいからこそ、私はあなたへ愛情(勿論奉仕的なものではない)をもち、「死んでほしくない」とつよくおもいます。
 私は、あなたを、喪失したくありません、私は愛するものを失うのが怖くて怖くてたまらないタイプだ、死にたいほどの苦痛のなかで、「もっとがんばろう」「もうすこし生き抜こう」とする、美しいあなたのことに想いを馳せていたい、私が死ぬのがゆるされるまでは、あなたのことを愛していたい。
 私はくるしめといっているのだ、冷酷だ、残虐非道だとおもう、ほんとうは、あなたが死んだら手を挙げてよろこぶべきなのだ、だってようやくあなたは、苦しみから解放されたのだから、しかし私はあなたに生きてほしい、生き抜いてほしい、これは全部エゴ、100%私のエゴ、私には「他者の為に」という感情なんてない、それを自覚してもなお死んでほしくないといいたい、「悪」だと知っていても「あなたがいま生きていること」を大切におもう、なぜといいあなたは、美しいから。
 その美しくくるしむ姿を、私は肯定します。「皆当然のようにしていることをできないだなんて。こんなことでくるしむな。本当はたいしてくるしんでないんじゃないか?」なんて、私はいいません。

 本来「美」には、「有用な価値」はいっさい存在しないはずです、ワイルドもいっています、美はいつも無用です、そして美は美であるということいがいに意味はもたない。けっして優れているといっているわけではありません。
 美男美女が優れた遺伝子扱いをされることもあるのは、そこに性的魅力が混じるからでしょう、美しい家具が優れた価値を有するとみなされるのは、それが目を愉しませると同時に実用性をもち、経済効果を生むからでしょう。
 あなたの「美」はあくまで「美」でしかなく、それ以上美化しようがない、しかしそうであるがゆえに純粋に美しい、それ以上もそれ以下もいえない。しかしそれゆえに、私はあなたに焦がれます、愛してしまいます、「死にたいのに生きているあなた」を、100%のエゴで大切におもいます。
 生きる意味なんて、ありません。あったとしたら、幻です。幻だと気づかないひともいます、無邪気に「価値」や「幸福」や「成功」へ邁進しているひともいます、社会的実績を生み得るでしょう、幸福になりがちでしょう、それを斜に構えて否定してはいけない、しかしあなたが、そのひとたちより劣っているわけではありません、「人間の価値」なんて幻です、他者の欲望を充たし貢献する現象を生みだすひとがよりおおく承認されているだけだとおもいます、実績は「現象」です、それを生みだした人格に価値が生まれ、差が生まれるわけではありません、人間には価値も優劣もありません、すべて無意味に帰すだけです、この世は虚空です。

 死にたいあなたは、「生きる意味は幻だ」という、真実の虚無をいだいているのではないでしょうか。しかし幻だからこそ、その真実をいだけるあなただからこそ、「私だけの生きる意味」を見つけてほしい。まず、「生きる意味をみつけること」を「生きる意味」にすることができます。「成功したい」「優れた人間でいたい」も生きる意味でしょう、幻にはちがいないですが、それで他者を軽蔑していけないとおもう、ひとそれぞれ、「生きる意味をあたえるもの」とは、ぞっとおそろしい、桜の花びらのはかない幻影でしかありません、ふっと虚無をいだけば、掻き消えるものでしかありません。しかしそれを見つけて、くるしみのなかでもがきながら求めんとする人間は、たとえ歌わずとも、もはや詩人なんです。
 私は詩人をこの世でもっとも愛します、なぜといいかれらは、咽び泣きたくなるほどに美しいからです。


自殺したいひとへ。100%、私のエゴだけれども、あなたに死なないでほしい。_a0395622_08203517.jpg

# by akitsu-mio | 2020-01-17 04:34 | かんがえたこと | Comments(0)

 今回は、「私の軽蔑心」を追及し、「私が軽蔑心をなくすにはどうすればいいか」をかんがえてみたいとおもいます。私はとくべつエゴイストで、ただそれを直視し克服しようという意欲があるだけであり、以下はみずからの醜い心理を抉らんとする作業の明文化になるので、不快になりそうな方は気をつけてください。

 軽蔑心とは、醜いものであるという風潮があり、しかし「人間は軽蔑するものだ」というひともいますね。
 先にいうと、私じしんは「軽蔑心を克服しよう」とはおもっているのですが、「かならずしも軽蔑してはいけないとはおもわない」「私が軽蔑されてもかまわない」というタイプです。
 私なんかは、かなりひとを軽蔑してしまうほうで、それがすごく後ろめたく、軽蔑する自分の「悪」に傷ついてしまいます。いぜんは、きれいなこころが欲しいという反動的な欲望がつよかったんだとおもいますし、そしてひとを軽蔑する権利なんて、私にはないという罪悪感がありました(こういう優性思想的な比較意識があるから軽蔑するんでしょうね)。そして、単に「自分が軽蔑されたくない」という理由による、否定の感情も存在していました。

 さて、私のあらゆる思考、言動の選択には、「差別」という思考法がとり憑いていると自己分析しています。まだ「軽蔑」には至っていない、ただ区分し、差をかんがえ、分け隔てるという思考であり、それがつぎの思考・言動を吟味するうえでの参考となるのです。
 すなわち私はなにかをかんがえるとき、複数の人間、物質、思念等の差を吟味して思考し、次の思考や言動を、峻別し選びとっているとおもわれるのです。
 すなわち、私が複数の人間を題材にして考え事をしていると、この思考のプロセスによってかならず「人間同士でのなんらかの差」が意識のなかで産まれ(かれは脚が速い、かれよりかれは脚が速い等)、そこに「価値(有用な、優れた、というニュアンスが入ります)」の基準がその思考に介入していれば、たとえば「一定のレベル(主観による、この場合はこの程度であるべきだというそれ)より格下」、あるいは「自分より格下(かれは私よりも脚が遅い、つまり競技会というシチュエーションを想定すると私よりも価値が低い)」が見つかり、私はそれを「価値が低い、有用性が低い、格下だ」と認識してしているとおもうのです。
 私は、その「格下」だと意識したその瞬間の、「格下だ」という感情を、「軽蔑」だととらえています。
 「私よりもかれは脚が遅いから、私はリレーメンバーであり、かれはリレーメンバーではない」という意識は、「かれ」を「競技会という場面において、私よりも価値・有用性が低い」とみなした瞬間、「軽蔑」と私に名づけられるのです。なぜといい、その価値は絶対的なものではないのにもかかわらず、「かれはこの状況下では価値の意味で格下だ」だという意識が浮かんでいるからです。
 いちいち、「あいつは私より~だからくだらない人間でバカでどうこう~」とまでかんがえ、「攻撃性」や「優越感の快楽」が生まれなくても、私にとってそれは「軽蔑」です。この「軽蔑」を、「攻撃性」や「快楽」に発展させるかは、個人の趣味の領域だと、私にはおもわれます。たとえ快楽に育っていなくても、すでに「自己あるいは一定のレベルのほうが優越」の意識があり、この発展への意欲があるかないかに、それほどのちがいがあるとは私にはおもえません。なぜといい、たとい限定的な場面にせよ、人間同士に「格上」「格下」なんて意識が浮かび、絶対的であるわけがない価値を測る尺度をもちいることじたいに、私は自責に足る意識をみいだすからです。
 すなわち、私に「価値の尺度」がありつづける限りは、私は「軽蔑心」をもちつづけるのです。

 私のそれを「攻撃性」や「快楽」にまで育てない方法、私には「思考のシャットダウン」、「注意力によってそのひとへの尊敬心を生むこと」しか見つけられていません。
 それを育てないようにする意欲のゆえんは、むろん私のようなエゴイストの場合、「軽蔑する人間であることが露呈して、きらわれたくない」「私は軽蔑する人間だという意識に傷つけられたくない」というものになります。
 話にもどります。
 まず「思考のシャットダウン」は「軽蔑心」の克服ではないはずです。私は気力的な人間ではないので、よっぽど元気がないと、「格下への意識」を「攻撃性」や「快楽」に発展させません。ほとんど気力、あるいは前述したように趣味の問題(それを娯楽として得たいかどうか)、あるいは「自己が自己へ発展を許すかどうか」の問題となってきます。
 もうひとつ、私はひとを軽蔑してしまったとき、「このひとにはこんないいところがある」と注意力を働かせることによって、軽蔑や自尊心が膨れ上がらないように、気をつけていました。勿論、ゆきつくところは自分の為に、ですが。
 しかしそれは、一つの尺度で軽蔑を産んだあと、またべつの尺度でそのひとを尊敬しただけで、その尺度はかならずどこかで「格下」をつくっているのです。
 その連続の方法をとるのも、日常生活をおくるうえで「きらわれる人間にならないため」にはアリだとおもいますが、その為の考察ではないですし、私は「格下だという意識」じたいを軽蔑だととらえているので、もうすこし自己を掘り下げてみたいとおもいます。

 私は、すぐにひとを尊敬します。芸術家や思想家にたいするそれは、崇拝にまでそだってしまったことも多々ありました。
 私の軽蔑は、それとかなり関連があるとおもわれます。尊敬するから、軽蔑するのだと。
 尊敬には、尺度がいります。あるいは尊敬した瞬間に、尺度が構築されます。「価値」の意識が生まれるからです。「かれはこういう理由で価値がある」と思考するから、私は特定の人間を尊敬し得ます。
 その思考はひとつの「価値基準」をつくりだし、自己と尊敬の対象との距離を測る定規をつくります(私の場合)。
 「努力家だからイチローのことを尊敬する」という意識は、私の場合かならず「努力しているひとはかっこいい」という一つの定規をつくり、それは暗に「努力家がかっこいいという一つの価値観にかぎると、イチローほど努力していないひとはイチローほどかっこよくない」という意識をつくり(定規は無数にあり、私もたくさんの定規を有していますが、イチローの努力を尊敬することで一つの定規ができあがることは、私にかぎっては間違いありません)、その定規は、「自分より、一定のレベルより、努力していないと主観でみなした相手」を、「格下」だと私に意識させるのです。私は現在、「努力は実績がないと見えないから量や質を決めつけてはいけない」「実績・努力にも運が作用する」等を念頭に置きながら思考していますが、あくまで例の話であり、少年期は上記のようにかんがえていました。
 その私の定規こそ、「価値基準」そのものです。

 すなわち私は、尊敬する人間、一定のレベルの人間、そして自己との距離を、定規をもちいて測るような態度と、絶縁しなければならないのでしょうか。
 ひととひとを、点としてだけとらえる。
 いわゆる「ひとはひと、私は私」でしょうか。劣等感にさいなまれていた頃、よくいわれました。
 しかし、ほんとうに人間全体をこう捉えることによって、私のような人間が「ひとを軽蔑しない」ということを実現するには、かなり孤独で特殊な態度を必要とするのではないかとおもっています(その態度は後述します)。私のような人間だと、ただこうアドバイスされただけでは、軽蔑心は消えません。
 「ひとはひと、私は私」は曖昧なので、「私は他人にはなれない、私は私以外になれない」という、これもまたしばしば耳にすることばに変化させてみます。しかしその諦めを私が抱くという対応策では、軽蔑心は消えないとおもいます。劣等感はその諦めで、消えたかもしれません。しかし諦めただけでは、「あのひとは尊敬にあたいする優れた人間である」という意識はのこっているはずだからです。そこには、「あのひと」と「そうでないひと」とのあいだの距離があるのではないでしょうか。それを測ってしまうのではないでしょうか。その尺度で、私がだれをも軽蔑しないとは、言い切れません。

 前述した「差別」の思考プロセスで、「尊敬する人間」の価値を測った際の尺度、すなわち価値基準を人間一般につかうと、自己よりも「格下」があらわれ得るはずです。
 すなわち、私が「軽蔑したくない」とおもうのなら、特定の人間を尊敬する心理から絶縁し、人間を測るすべての定規を捨て、あらゆる価値基準の所有を拒絶せねばならないのではないでしょうか。
 しかしそうなると、私はなにをめざして、なにを基準に、生きれば好いのか。人間は花をいだかねば、私のように希死念慮のある人間はとくに、生きていけないとかんがえます。生きる意味、死なない意味、がんばる意味のことです。
 坂口安吾を想起します。

 さて、坂口安吾は、評論によって、文明や人間、国家を斬りました。すこぶる烈しく、そして明晰なことばによって。しかしかれは、『詐欺の性格』で大衆をぼろくそに批判した直後、「オレはエライ、大衆はバカだ、そんなことを言う奴は、私はキライだ」と書くのです。
 私ははじめ、「安吾は初めてキレイゴトを言ったんじゃないか」とおもいました。軽蔑するから、(そのとき)大衆を批判していたんじゃないかとかんがえていたのです。
 しかしかれは本心をいっていたのです。かれは人間を測る定規を持たなかった、いな持てなかった。なぜといい、「人間の性なんて万人がおなじものだ」とそのあとに書くのです。かれは罪人をいっさい軽蔑しません、「あらゆる人間というものが、あらゆる罪人を自分の心に持っているものだ」。
 なによりかれは小林秀雄からこう指摘されました、「君なんか、誰も尊敬してないだろう」。「誰も尊敬してない」、と安吾はこたえたように記憶しています。
 安吾は、人間というものに、差がうまれるわけがないという思想だったのではないでしょうか。それはすなわち、差が生まれ得る「人間の価値」への絶望です。

 安吾とならんで無頼派とよばれ、かれの友人であった太宰治は、名作『斜陽』で、自殺へむかってゆく直治に、遺書によって「人間は、みな、同じものだ」ということばを攻撃させます。
 かれいわくそれは卑屈で、奴隷根性の復讐で、「あらゆる思想は姦せられ、努力は嘲笑せられ、幸福は否定せられ、美貌はけがされ、光栄はひきずりおろされ…」、そう、「僕は、貴族です」と悲しくさけんだ直治が固執していた、「優越性」というもの、それに安吾は、ことごとく価値をみいだしていなかったのではないでしょうか。

 ここからは、考察は足りていないはずですが、坂口安吾を「大衆に対してのみならず、軽蔑心からのがれられた人間」だと決めつけて、かんがえます。

 つまり私のような人間は、人間を測るあらゆる尺度、そしてあらゆる優越性・劣等性を虚無へつきおとして、「人間はみなおなじものだ」と実感して、人間に差が生まれ得る「価値」など存在し得ぬと信じ、ひとにまったく尊敬心を抱けなくなって、はじめて「軽蔑心」からのがれられるんじゃないかとおもうのです。
 私は、どうしてもひとを尊敬してしまいます。エライ人間が、いるような気がするのです。ほかでもない坂口安吾じたいを尊敬し、「こうなりたい」とおもってしまいます。
 ジョン・ライドンは、自分のフォロワーに「俺らの真似をするな。自分自身であれ」といいました。安吾も、崇拝者にたいしおなじ感情をもったのでしょうか。
 無頼派とパンクロッカー、町田康を引き合いにしなくても、いっていることが似ている気がするのは、気のせいでしょうか。
 私が「こうなりたい」とおもって努力すると、かならずどこかで軽蔑心を生み、ともすれば排他的な思考も生みおとす可能性があります。「こうなりたい」ではなく、「こうしたい」とかんがえる必要があるのかもしれません。「こうしたい」のあとは、世界との折り合いと(したい放題な態度は勿論社会にいるかぎり肯定できません)、世界との格闘であるはずです。そういった人間には、基本的に「未来への不安」はないのかもしれません。「こうなりたい」には、かならず未来の予測がありますが、「こうしたい」には、現在しかないからです。。

 人間の本性へ、堕ちよ。
 堕落論。
 社会の価値基準から降りて、自我へ真に堕落した人間は、「格」の生まれ得るあらゆる価値を、人間のなかにみることができなくなるのでしょうか。
 素朴な欲望として本心からやりたいことをしか、そのために必要なことをしか、堕落した人間にはできない。あらゆる社会のしがらみから解放され、あとは自己と、不条理な現実との格闘のみ。ストイックな努力は、すべて自我の欲望をやり切ることに費やされる。あとは安吾そのものの生活のように、だらしなさの極みでしょう。そういえば、パンクロッカーもドラッグや性やなんかに色々だらしないですね。

 あらゆる価値基準、尺度がとりのぞかれてもなお発する、純粋な欲望。本心からやりたいこと。
 安吾は、きっとそれだけを求め、正直に従ったでしょう。
 かれは、たまたまやりたいことと才能、肉体の強さ(努力やデカダン生活に耐えられるタフさ)、時代が一致して、エライ文学者というあつかいになったとかんがえています。「文学上で優越性へ向かいたい」「さらに価値ある人間でありたい」「承認されたい」という欲求を感じないのです。
 本人は三文文士といっていましたが、原稿を書けば出版社が喜んで買っていたそうで、「堕落論」「白痴」はかれを有名にしましたし、けっこう、生前も評価されていました。
 しかし、かれには「ぼくはエライ文学者だ」という自尊心がないようにおもいます。おそらく、他者との比較による自尊心はなかったでしょう。そんなことできるくらい、ある種人間に夢をもっていなかったのかもしれません。
 ひとを軽蔑しないということは、「人間のなかに、格がうまれ得るあらゆる価値を期待しない」ということなんじゃないでしょうか。

 定規をもたず、人間を点でのみとらえ、人間同士を比較しない人間には、軽蔑は生まれようがない気がします。
 とすると、まったく軽蔑をしない人間は、「価値」なんて気にもかけず、ひたすらやりたいことをやるような、パンクな生き方、無頼な生き方、そんな良識からみれば、だらしなく、ろくでもない人間に、発見されやすいようにおもいます。
 そんな生き方のひとばかりになったら、現代社会はまわらないはずです。だから坂口安吾は、アナーキズムやコスモポリタニズムを理想にしていたのかもしれませんね。

 以上の文章の「正しさ」には自負がもてません、これからも「軽蔑」については、かんがえていきたいとおもいます。
 おススメの本があれば教えてほしいです…、けど、ここまで読んでくれたひといるのかな…。

 坂口安吾は、私とおなじ理想をもっていました。
 「無償の愛を人間の最高の姿とみる」。
 かれはそれを表出させた人間に、なにを見たのか。尊敬したのか。
 「人間性に差はない」のことばと矛盾させない為には、「坂口安吾は、人間はだれしも『無償の愛』を睡らせているとかんがえていた」とするしかありません。
 私はこの推測のなかにも、人間のなかにある夢(価値)をみてしまいます。


# by akitsu-mio | 2020-01-15 06:37 | かんがえたこと | Comments(0)

 私は「他者の為に」という意識を持てません。

 そんな人間ですが、よく相談を受けます。
 そういった時に、私のような人間は、「あなたの為に」という意識を自己へ偽装すると、かならず歪むとおもっています。「あなたの為に」、そう自己欺瞞するから、想定していた反応が来なかったら腹が立つこともあるし、「あんなにしてあげたのに」なんて不可解な悪の感情がうまれるんだとおもいます。
 はじめて付き合ってくれた恋人が病的にくるしんでいて(とても頑張っていたのですが)、けっこういろいろ話を聴いていたのですが、別れ話をされた時、「あんなに話聞いてやったのに」という意識が浮かんだんですね。おぼえていないけれど、そういうことを言ったかもしれません。
 私はただ、自分が相談をうけることで、恋人が楽になったら嬉しい(自己愛が充たされるから)、恋人がくるしんでいると心が痛む(ただの共感力)、話を聴くことでこの先も恋愛関係をつづけてほしい(説明いりませんね、エゴです)、もっと好きになってほしい(紛うことなきエゴ)、ということごとく「自分の為に」の意識を充たそうとしていました。
 すべて、自分の為です。
 それを自己欺瞞し、「あんなにしてやったのに」という八つ当たりの意識をもつ。そんなことはもうしたくありません。私からすれば、私のこの意識は偽装であり、そして真実を誤魔化しているがゆえに醜いからです。私は「悪」を「悪」と認め、直視し、それが自分に在ると自覚していたいのです。
 真実は、たといどんなにグロテスクでも、私には醜いとおもわれません。ただ在るものだから。(グロテスクという言葉は、醜いものを指すのではなく、「異教徒風」です。つまり現在の社会秩序と折り合いの合わないものを指すとかんがえており、「悪徳」にちかい意味でつかっています。たとえばほとんどの男性向けAVは悪徳ですね、社会との折り合いがわるい欲望を充たすものだから)

 それでは、「他者の為に」がもてない私は、相談を受けたときにどうすればいいのか。
 基本的には話を聴くだけでいいとおもっています。
 それ以上を、相手から求められたらどうするか。
 真っ直ぐにかれと向き合うのです。そして寄り添うのです。
 一時的に楽にさせるやさしさは、長期的にみるとむしろかれをくるしめるとおもいます。たとえば容姿でなやむひとに「ブスじゃないよ」というと、たとえそれが嘘ではなくても、そこで楽になってしまうと、つぎ「ブス」といわれたときにより傷つくだろうし、そもそもなんの解決にもなっていません。私は容姿でなやむ人間に問題点があるとすれば、それは「容姿が悪いこと」ではなく、「容姿で悩む人生観」だとおもうんです。
 
 真っ直ぐに向き合うというのは、それがエゴであると自覚しながら、むしろ相手をくるしめる悪にもなるかもしれないと認識しながら、けっして嘘をつかず、理性による思考でえらびとった「これが相手の為になるのではないか」という対応を、実直におこなうということです。
 むりして真実をつきつけようとしなくていい、どうせ私の抱く「正しさ」なんて正しいか解らない。それはこの文章のすべてがどうようであるけれども。
 ただまっすぐに、「あなたの役に立ちたい」というエゴに従う。役に立ったことで充たされるのは、私の場合は自己愛でしょう、空白は充たされるでしょう、しかし私は、「他者の為に」が持てないタイプのひとは、これ以外に道はないようにおもいます。結果的に、役に立ってればいいのです。人間関係における価値とは、「相手になにを与えられたか」です。自己に「他者の為」という感情が在ったとしても、相手の役に立たなかったら悪なんです。
 一時的に楽になったり、きもちよくさせるようなことを言っても、ただ相手から好かれるだけです。しかし「好かれる為に」誤魔化し、のちのちの悪を与え、しかも自分をも誤魔化すのであれば、私はきらわれて、縁を切られたほうがマシです。
 おそらく私のような人間は「役に立つ」ことさえもできないから、相手も「う~ん」と微妙な反応をして相談を切り上げると思います。そうなら、そうでいいとおもいます。どうせ「相手の為に」なんて感情が私にはないから。
 「甘い言葉が欲しいだけ」の人間もいます、しかしかれらは、こういう対応をとればすぐに去っていくとおもいますよ。傷つけることなんて、あったとしてもその一回で済むはずです。こちらとしても、ひとを傷つけたら傷つきますけどね。

 そして「寄り添う」というのは、「あなたを気にかけているひとがいる」ということを態度で伝えるということです。けっきょく、「他者の為に」がもてない私にはこれしかできないかもしれません、それもエゴだけど。
 しかし「私はこのひとに気にかけられている」という意識は、まあまあ、くるしんでいるひとを楽にさせます。一時的に楽にさせ、のちのちの悪を与えることをさきほど否定しましたが、こういった「楽にすること」は、ずっと真っ直ぐにかれを向き合っていれば、のちのちの悪にはつながりません。
 しかし勿論途中で突き放すと、壮絶な苦しみを与えます。

 だから「他者の為に」がもてない私は、「やさしさを施すのならば、そのエゴと悪を自覚し、あかるめ、それでもなお手を差しのべたいののなら、エゴで悪だと自覚しながら、全力でやり切らねばならない、半端にするのなら、最初からやさしくするな」と自己へ課しているのです。
 「やり切ることができないな」と思ったら、話を聴くだけでいいです。それでも、すこしは役には立てますよ。

 以上の文章を見て、「相手の為に」の意識がないじゃないか、とおもわれたんじゃないかとおもいます。
 もちろん私はそういう人間だから、そういう人間が読むことを想定して書いたつもりです。

 なぜ「他者の為に」が持てないのに、相談を受けると、私はひとの役に立ちたがるか。
 相談を拒絶すると、相手が私から去ってしまうからです。去られるとさみしいし、自分が「相談に乗ってやらない悪だ」という意識は自己を傷つけますね。話を聴くと自分に有用性を実感でき、すこしだけ自己愛が充たされるからです。ブラック企業に吸いとられないように気をつける必要がありますね、そんな体力と根性、躁鬱病にはないけど。そして私には、役に立つことのその先、「もっと仲良くなってくれるのではないか」という期待があるからです。人間嫌いで、人間大好きですからね。相談してくれるくらい、私のことを信頼してくれてるひとは、たいてい大大大好きですよ、自己愛充たされるし。
 その癖、私は「誤魔化してまで好かれたくない」とおもっているのです、われながらめんどくさいですね。私は、寂しいのです。自己愛しかないのに、一人は嫌なんです。ある種、ヒキコモリになるタフさがないんです。
 私のブログの半分は、こういったモチベーションで書かれているはずです。残り半分は「自分の考えを発してみたい」という欲望です。全部、エゴです。

# by akitsu-mio | 2020-01-13 05:24 | かんがえたこと | Comments(0)